長篠合戦図屏風に描かれていた真実


3,000丁の鉄砲を駆使して武田軍を壊滅させたという「鉄砲三段撃ち」は織田信長の画期的な戦法として広く知られているが、現存する八隻の「長篠合戦図屏風」のどこにもその描写は無い。また、信長の近くに仕え同時代を生き抜いた太田牛一の記した「信長公記」にも、武田氏の軍記である「甲陽軍鑑」にもその記述は無い。世界史的な戦術の革命と称される出来事にしてはあまりにも不自然ではないか・・

屏風には何が描かれていたのか・・実銃を扱う研究者が現地に立って考察する。

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長篠合戦図屏風(成瀬家本)全図 

一番右側に織田・徳川軍が長篠城救援のために攻め込んだ鳶ノ巣山砦(右下)と武田軍の猛攻に耐えた長篠城。中央に連吾川を挟んで左側が織田・徳川連合軍。右側に丘陵から飛び出してくる武田軍が描かれている。(※実際の長篠城と主戦場だった設楽原〔したらがはら〕は直線で4キロ程離れている。また城の救援と決戦には時間差がある。)

記録としての「信長公記」・読み物だった「信長記」

先頭の列が発砲・中列は待機・後列は装薬と弾ごめ・・このローテーションで間断なく射撃を行い、騎馬で突進してくる武田軍を壊滅させたのが世にいう「三段撃ち」。

近年、この三段撃ちが疑問視されている。そもそも三段撃ちの記述が最初に現れたのは「信長公記」を下敷きにして書かかれた「信長記」であり、信長・家康と同時代を生き、長篠合戦にも加わった大久保忠教(彦左衛門)をもってして「三分の一はウソ・三分の一は似たようなことがあった程度の本」と、当時から信憑性が疑われていた。それがそのまま明治時代になり陸軍の教本に載ったことで、あたかも史実として世間に通用しこれが今日に至っているというのが実相である。では、信長はどのように鉄砲を使ったのか・・・(※信長公記の書名は元来「信長記」であった。後に出版された同名の「信長記」との混同を避けるために「公」の一字を加えて「信長公記」とされた経緯がある)

射撃の特性や狩猟経験を持つ筆者は、合戦図屏風に描かれている長篠合戦の模様や三度に及ぶ現地踏査での発見から二つの説を立てた。

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仮説1 効果的な射撃を行うための地形上の罠をしかけた。(もっとも効果的な陣どりをした。)

仮説2 遠・中・近・の距離に対応する三種の射撃方法で武田軍の突進を食い止めた。


◉前提として、火縄銃についての基本的な事柄を解説する。

● 火縄銃は我々が思うより強力で精度が高い

現代の散弾銃は火縄銃のように1発の単体弾を発射することもできる。その弾丸をスラッグ弾と呼び、多くは火縄銃と同じく鉛弾である。鹿や猪などの大型獣の狩猟に用いられる。通常使われている散弾銃の口径は12番径と20番径の2種類である。12番径の弾丸の重さは約1オンス、つまり28グラム前後が標準。20番径は8分の7オンスつまり24グラム前後。これらは火縄銃の8匁(30グラム前後)弾と6匁(22グラム前後)弾に相当し、実用的なサイズでもあるため実戦でも多く使われた。

長篠からは様々な大きさの弾丸が発見されているが、7グラムから8グラムの小口径弾も見つかっている。これらはバックショット(鹿撃ち用6~8粒散弾)に相当するものかもしれない。中距離(30メートル程度)ならば人にも十分なダメージを与えることができ、長篠合戦でも使用された可能性がある。

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(現代の散弾銃は番数が小さい程口径が大きくなる。したがって20番より12番の方が口径も弾丸も大きくなる。左12番・右20番))
ライフルと呼ばれる銃身内に螺旋状溝を持たない火縄銃は命中精度が落ちると思われがちだが、100メートル以内での実猟・実戦では十分に威力を発揮する。特に日本製の火縄銃は精度が高く、国際的な射撃大会で命中率を競う部門では多くの射手が日本の火縄銃を手にするという。今日の散弾銃(スラッグ弾)における弾丸の飛距離はおよそ700メートルだが、殺傷力と命中率から導きだせる有効射程距離は100メートル前後である。更に70メートル以内での命中率と殺傷力は飛躍的に高まり、人体へのダメージもより大きくなる。当時の火縄銃も同様と考えられる。

以上のことを前提に長篠合戦を見直した。


● 仮説1:火縄銃を最も有効に使うために100メートル以内に敵をおびき出す工夫

なぜ”この場所”が決戦の舞台になったかを考えてみよう。衛星写真で主戦場を見ると川幅数メートルの小河川「連吾川」(れんごがわ)が織田・徳川軍陣地のすぐ側に流れている。対する武田軍は連吾川から120〜130メートル前後の丘陵の谷戸部分から攻撃をしかけており、屏風絵にはその通りの状況が描かれている。衛星写真で見れば分かるように合戦地の北方約1キロの地点には騎馬戦に有利な原が開けている。武田軍がこの地を選ばなかったのは原の南に流れる連吾川の作る狭間に織田・徳川軍が陣を敷いたからである。しかも挟撃のための徳川軍陣営裏への移動は、信長が茶臼山に本陣を構えている限り極めて危険である。

前線に出ていた徳川軍は武田騎馬軍団を食い止めるための馬防柵を築いたが、とぎれとぎれで一列ではなかった。つまり高台から眺める馬防柵は隙間だらけであり、間隙に攻め込めば容易に敵陣に切り込むことが出来ると思わせるのに十分な、ある意味ずさんな作りであった。しかも、武田側から馬防柵までは緩やかな下りで、騎馬で攻めるには絶好の条件が揃っていたのである。織田・徳川軍には大量の鉄砲があることを知っていた武田軍は挟撃をあきらめ、敵陣に出来るだけ近づき一気に突進し鉄砲の威力を最小限に抑えるという戦法をとった・・というよりとらされた。
織田・徳川連合軍は武田軍が必ず攻め込んでくるであろうと云う状況をそこに作り出していたのである。
一説によると信長は武田側の丘陵尾根の先端部分を削り、馬が降りられないようにしたともいわれている。(後世の開削により現在はその姿を見ることができない)

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復元馬防柵。合戦当時は幾重にも築かれていた。

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長篠合戦場衛星写真図(google map)広い設楽原のうちで最も狭い場所が主戦場に選ばれた。鉄砲を使うのには最も適した場所といえる。信長はこの地の地形を知った上で敵を誘導し勝利した。

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主戦場拡大図(google map)この図で馬防柵は連吾川より数メートル左に寄った場所に作られた。武田軍は右側の谷戸伝いに移動し突然現れた形で攻撃をしかけた。

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上図右側矢印(下)の位置から見た馬防柵方面。谷戸内にいる限り、織田・徳川方からこちらは見えない。

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谷戸を出た途端間近に馬防柵が見える。左手の谷戸先端から馬防柵(連吾川)までの距離は約130メートル。有効射程距離内に入るまであと30メートルほど。緩やかな下りという条件で騎馬なら4〜5秒程度で射程内に入る。(※当時の馬の速度が40Km/hとした場合、走り始めから最速に至るまでの時間を考慮して)

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復元馬防柵と土塁

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谷戸から飛び出した武田軍。出ばなに撃たれた者も数多い。

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連吾川手前の激戦。次々に撃ち取られていく武田軍。左上は家来に運ばれる山県昌景(やまがたまさかげ)の首級。

武田軍としても敵から丸見えの尾根伝いより、直前まで姿の見えない谷戸から一気に飛び出して攻撃を加えた方が有利であり、実際そのように行動した。だが、それこそが信長が仕組んだ巧妙な罠であった。いかにも攻めやすい場所を設け、直線で攻めてくるであろう状況を作り出し敵を狙い撃ちにしたのである。(屏風絵にも谷戸から飛び出してくる武田軍の様子が描かれている。)

横に動く標的より前後に動く標的の方が撃ちとるには容易である。一直線に突撃してくる騎馬武者達は織田・徳川の射手にとって格好の的であったに違いない。勇将「山県昌景」は複数の弾丸を一気に浴び、ほぼ即死状態で撃ちとられ、その首は従卒によりかろうじて信長の手から逃れた。谷戸から飛び出した武田軍はこのようにして次から次へと撃ちとられていった。
では、織田・徳川連合軍はどのように効果的に火縄銃を使用したのであろうか?


● 仮説2:三種の射撃方法(姿勢)で銃を効果的に使用した

現代の射撃においても距離と状況によりその射撃姿勢が自ずと決まり、それは長篠合戦当時も変わるところはない。

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依託射撃姿勢 (遠距離に対応)

銃や身体を固定して撃つ・・現代では「依託射撃」(いたくしゃげき)と称し、三脚や木あるいは窓枠など固定されている物に銃身をあて身体の微細な振動を抑えて撃つ射撃姿勢。命中精度は一番高い。(模造銃)

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膝撃ち姿勢(中距離に対応)

ひざ撃ち・・片足でひざまずき下半身を安定して射撃する姿勢。(ひざの上に銃身側のひじを載せて撃つ場合もある。主に左ひざに左ひじ)上体のぶれが比較的少なく依託射撃より命中精度は落ちるが射撃前後の移動などに機動性がある。

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立射姿勢(近距離に対応)

立ち撃ち・・身体を固定せずに立ったまま撃つ方法。微妙に身体が動くため遠距離での命中精度は落ちるが、近距離での臨機応変な動作で即応的に銃を操作することができる。50メートル以内の標的に圧倒的な効果をもたらす射撃姿勢。

※立射では反動に備えてやや前傾することが多い。屏風絵にもそのように描かれている。

※これ以外に腹這いになり敵弾を避けながら撃つ「伏せ撃ち」がある。ただし、甲冑を付けこの姿勢をとることは難しく、動きも鈍くなるので当時の合戦で用いられた形跡はない。よって屏風絵にも描かれていない。

長篠合戦図屏風に見る射撃姿勢

合戦の様子を描いた屏風にも依託射撃・ひざ撃ち・立ち撃ちの三種が見られる。

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(依託射撃)馬防柵の縦棒に銃身を押しつけ固定している射手たち。横棒の上に乗せていないのは前後左右の素早い動きに対応するためである。

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武田軍が攻めてくる様子はこのように見えていた。依託射撃では前方を走る車の距離であれば容易に命中させることができる。

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 前列はひざ撃ち後列は立ち撃ちで待ち構える射手。立射の射手は反動に備えてやや前傾している。また、正確な射撃をするために銃床を頬に押しつける「頬づけ」がしっかりとなされている。このことから、彼らがよく訓練されていることが読み取れる。なお、弓兵は柵を突破した敵兵からの鉄砲隊の護りである。(※銃床への頬づけは今日においても射撃の基本である)

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(戦場の拡大図)上部に依託射撃・馬防柵の内側で待ち受けるひざ撃ち射手と、馬防柵を出て連吾川の手前で待ち受ける立ち撃ち射手。武田の騎馬軍団は信長の狙い通り殆ど全てが谷戸の中から出て馬防柵の間隙を目指し突撃。その多くは谷戸を出て数秒後に無数の弾丸にさらされ命を落とした。運良く弾丸を避けてたどり着いた騎馬武者も一旦は必ず連吾川の斜面に降りなければならず、小河川の急斜面では速度も落ち上体はのけぞる。その一瞬の無防備状態を待ち受けているのが立ち撃ち射手である。馬防柵の前に出ている射手がいるのはそのためであろう。徳川軍が連吾川沿いに馬防柵を構えた理由がここにある。画中には突進してくる敵を距離と状況に応じて撃ち取るという極めて合理的な陣形が描かれており、美的表現の中にも伝承された祖先の武功を「記録」として伝えるために屏風絵が描かれたことを物語っている。

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「連吾川」

武田軍は右から左に向かって攻めてきた。小河川であっても渡河するときには確実に速度は落ち体勢も崩れる。屏風絵から推察すれば左側およそ2〜3メートルの範囲内にも馬防柵が築かれていたと思われ、ほぼ100%の命中率を得る距離と状況が作られていた。(左手奥に復元馬防柵が見える。奥の白い橋脚は新東名高速道路。下り線(左方向)に進んだ場所に信長本陣の茶臼山があり、武田軍が上手から廻り込むのを抑えている)

三段撃ちは無かった

希代の天才、織田信長は自ら射撃を好みその技量も並外れていたという。鉄砲を知り尽くした彼はその威力を最大限に活かすための戦法を編み出し歴史を塗り替えた・・・それは、これまで語り継がれてきた「弾込め・待ち・発砲」の三段撃ちなどではなく、「遠・中・近」の突撃してくる敵との距離に対応する考え抜かれた合理的戦法であった。これが長篠合戦における三段撃ちの真相である。

敢えていうなら、長篠合戦にお目見えした日本初の鉄砲戦略は「三段構えの戦法」だったのである。

● 備考1

◉ 鉄砲3,000丁という数は定かではなく、1,000丁、1,500丁、2,000丁という説もある。がしかし、どの説をとっても当時としては桁外れに多く、たとえ1,000丁であったとしてもこの作戦で戦えば十分に効果を発揮したであろう。当然のことながら、織田・徳川連合軍はこの作戦を完遂させるために膨大な量の弾丸と火薬も準備していたのである。


◉ 火縄銃は雨に弱いと思われがちだが水濡れに強い火縄の改良や火蓋(ひぶた)を覆う「雨覆い」(あめおおい)などの工夫によって、強い雨でなければ普通に発砲できた。よって梅雨時の戦であった長篠合戦も憂いなく作戦を遂行することができた。(実際には当日の降雨はなかった)また、弾丸を発射するための胴薬は顆粒状、発火用の口薬は粉状と、安定した着火と発砲の工夫もなされていた。


◉ 当然の事ながら火薬量(胴薬の)を増やせば破壊力も増し、銃の耐久度と標的の種類及び距離によって増減されていた。日本製の火縄銃は現代銃と比べても頑丈にできており、火薬量を2〜3倍に増やすことも可能ではあるが、反動も大きく実戦では3〜5グラム(黒色火薬)程度の範囲で使われていたと思われる。屏風絵に描かれている3種類の射撃姿勢においても遠・中・近の目標に合わせて火薬量を変えていた可能性がある。


◉ 現代のスラッグ銃弾(鉛)は体内に入るとその抵抗で変形するため、射入口は小さくとも”いびつに広がった”弾丸は骨を砕き内臓を吹き飛ばし肉を破砕する。結果、射出口は射入口より大きくなる。火縄銃も同じ鉛弾であるためその殺傷力は想像以上のものがある。ましてや甲冑を貫いた弾丸は大きく変形するので、複数の銃弾を浴びた山県昌景の体内と背面は相当に悲惨な状態であったと推察される。(※実験では100メートル以内であれば容易に甲冑を貫通する)


◉ 武田軍は、騎馬武者が足軽を従えて突進する戦法であったため騎馬武者が倒れれば足軽の動きも止まった。織田・徳川軍はまず、この騎馬武者を標的にした。敵兵が馬防柵を越えて侵入した場合には白兵戦となり鉄砲での対応は難しいため、弓兵と槍兵が配備されたが、彼らの出番は追撃戦まで殆どなかった。屏風絵にもそのように描かれている。


◉ 一般的に武田軍は”武田騎馬軍団”と称されることがあるが、この絵を見ても判るように騎馬だけで編成された隊はなく、騎馬戦に長けた武士が武田には多かったということから付けられた呼称なのであろう。但し、本ページではわかり易くするためにこれまでの呼称を一部踏襲している。


◉ 古い記録を見ると連吾川の近くは雨が降るとぬかるんだとある。合戦前夜は雨である。谷戸から飛び出した武田軍も連吾川に近づくに連れて速度が弱まった可能性がある。


◉ 「信長公記」は弓の名手として信長に仕え、後にその才能が認められ書記となり、有能な官吏として活躍した太田牛一(おおたぎゅういち・ごいち)によって1600年頃に書かれた。詳細で正確な記述により最も信頼できる信長の一代記といわれている。なお、太田牛一は本能寺の変以後もその丁寧で正確な仕事ぶりが買われ、丹羽長秀や豊臣秀吉にも取り立てられた。秀吉時代には検地にも関わったとされ、彼の能吏としての一面が垣間見られる。信長公記が他の軍記物と一線を画しているのは牛一のそうした正確さと客観性に裏付けられた記録としての価値が高いためである。


◉ 一方「信長記」は小瀬甫庵(おぜほあん)によって1623年に刊行された。信長公記に書かれた史実に虚構を加えた創作本だが庶民には大いに受けて版を重ねた。後世に語り継がれた信長のイメージはこの本の影響によるところが大きい。


◉ 信長記刊行以後に描かれたと思われる長篠合戦図屏風においても、信長記によって流布された三段撃ちは描かれておらず、屏風に展開する合戦の模様は、実際に戦を経験した者の伝承や記録に基づいていることを物語っている。


◉ 現存する長篠合戦図屏風は「犬山成瀬家本」「名古屋市博物館本」「徳川美術館本(二隻)」「大阪城天守閣本」「大分奥平神社本」「平戸松浦史料博物館本(成瀬本の写し)」「個人蔵」の八隻である。それぞれ時期は異なるが江戸時代に描かれ、色合いや描写の方法も異なるが基本的な構図は同じである。なお、本ページでは一番古く成立したと思われる成瀬家本を参考史料としている。


◉ 成瀬家本は連吾川など風景がデフォルメされてはいるものの、射手の正確で詳細な射撃姿勢の描写、陣形、谷戸から攻撃を仕掛けて壊滅していく武田軍の様子など、屏風絵としての美術的価値と共に歴史資料としても第一級の史料であることを示している。このように極めて具体的な描写から推察するに、これを描かせた人物あるいは絵師その人が”実戦または射撃の経験があった”ということを示唆している。

● 備考2

※リンク:長篠合戦に至る経緯やその詳細はwikipediaを参照されたし。(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ 長篠の戦い)

※リンク:火縄銃については優れたページがあるので、そちらを参照されたし(http://www.日本の武器兵器.jp/part1/火縄銃

※長篠古戦場趾には国内最大規模数の火縄銃と戦国時代および長篠合戦関係史料を展示する「新城市設楽原歴史資料館」が設立されている。

※参考文献・史料 ・戦国合戦絵屏風集成第一巻 川中島合戦図・長篠合戦図 中央公論社 昭和63年刊・現代語訳信長公記 KADOKAWA 中川太古訳 ・甲陽軍鑑 ちくま学芸文庫 佐藤正英校訂/訳 ・信長記(上下) 現代思潮新社 石井恭二校注

※協力:富士五湖射撃場

※衛星写真:google map   写真:多賀歴史研究所   文責:多賀譲治

●追記

◉ 旧来の戦法に拘わり何度も同じ攻撃を加えたが失敗に終わった武田軍の悲惨な結末は、日露戦争での203高地攻略や、ノモンハン事件。太平洋戦争でのガダルカナルでの戦いを想起させる。日本人の思考パターンを研究する上で一つの課題とも言える。

・「鎌倉時代の勉強をしよう」玉川大学・学園のページに行く

※2021.10.17 一部修正 

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